2020年07月03日
【地域の史跡11 曽我秀文の墓】
【地域の史跡11 曽我秀文の墓】
場所:高山市石浦町1丁目

室町時代に日本に渡来した明国人の曽我秀文(生年不詳~享禄3(1530)8.25享年79)の墓。
曽我秀文は初め越前に住み、白川郷を経て飛騨(石浦村坂口)に移り住んだ。現在も曽我秀文が住居としていた場所が石浦町に残っており、その土地の上に建物が建てられ、遺跡が残っている。
秀文は医術に長け、農業にも詳しく里人の尊敬を集めたため、祭神として祀られたという曽我神社が現存し、片野町の秀文顕彰会の皆さんによって護持されている。
昭和57年に中国大使館の公使が来高した際にこの地を参詣し、感激されたという逸話が残っている。
参考文献:『高山市史』『飛騨人物事典』
文責:KN
場所:高山市石浦町1丁目
室町時代に日本に渡来した明国人の曽我秀文(生年不詳~享禄3(1530)8.25享年79)の墓。
曽我秀文は初め越前に住み、白川郷を経て飛騨(石浦村坂口)に移り住んだ。現在も曽我秀文が住居としていた場所が石浦町に残っており、その土地の上に建物が建てられ、遺跡が残っている。
秀文は医術に長け、農業にも詳しく里人の尊敬を集めたため、祭神として祀られたという曽我神社が現存し、片野町の秀文顕彰会の皆さんによって護持されている。
昭和57年に中国大使館の公使が来高した際にこの地を参詣し、感激されたという逸話が残っている。
参考文献:『高山市史』『飛騨人物事典』
文責:KN
スポンサーリンク
Posted by 山まち at 08:00│Comments(0)
│地域の史跡