2020年07月22日
【昔の写真1】 森下町にあった斐太製糸株式会社
《森下町のなりたちを調べる》
大正6・7年の森下町
斐太製糸(株)片野工場が有志の投資で創立・創業
大正時代の森下町の地名は、高山市史によると「大名田村片野」でありました。
当時は、桑づくりにつなげて養蚕農家と製糸業が盛んであって、大正6年には
高山町で蚕糸品評会が光られたり、製糸に関連した施設で「県蚕業取締所高山
支所」が七日町から大名田村片野へ移転されています。その施設との関連性も
あって「斐太製糸株式会社片野工場」が有志の投資によって創立されています。
斐太製糸(株)の規模等は、山王下の改良道路西側(現在の日枝中学校敷地)の
一万坪の敷地に工場四棟、寄宿舎一棟、乾燥場、倉庫、その他で建坪1450坪、
釜数300に女工養成釜が50設置され、女工が遠隔地へ流出するのを防止する
ための対策でもあったようです。
操業は、大正7年6月を予定し、女工の募集人員は70人で尋常小学校卒業または
満14歳以上の身体壮健な人。資格は、契約のトラブル等をふせぐために厳しく
求められていました。
大正15年、斐太製糸(株)の女工員数は140人、位山製糸59人、三星製糸56人
であったと言われています。
森下町の地名は、大正11年に創られた地図上によると、すでに森下町と記され
ていますが、昭和12年に片野区から分かれて森下組として独立し、昭和17年に
入って高山市の町名改正によって正式に「森下町」として呼称されるように
なっています。
山王宮・日枝神社とのつながりによるところが多く、戦後に新しく設置された
中学校、小学校、保育園に「日枝」や「山王」の名が使われ、住居地域へと
変貌し、いまに至っています。

大正6・7年の森下町は斐太製糸(株)片野工場が創立・創業
=当時の全景。現、日枝中学校の付近

大正6・7年の森下町には、斐太製糸(株)片野工場の寄宿舎があった。
=当時の寄宿舎。現、日枝中学校の付近
大正6・7年の森下町
斐太製糸(株)片野工場が有志の投資で創立・創業
大正時代の森下町の地名は、高山市史によると「大名田村片野」でありました。
当時は、桑づくりにつなげて養蚕農家と製糸業が盛んであって、大正6年には
高山町で蚕糸品評会が光られたり、製糸に関連した施設で「県蚕業取締所高山
支所」が七日町から大名田村片野へ移転されています。その施設との関連性も
あって「斐太製糸株式会社片野工場」が有志の投資によって創立されています。
斐太製糸(株)の規模等は、山王下の改良道路西側(現在の日枝中学校敷地)の
一万坪の敷地に工場四棟、寄宿舎一棟、乾燥場、倉庫、その他で建坪1450坪、
釜数300に女工養成釜が50設置され、女工が遠隔地へ流出するのを防止する
ための対策でもあったようです。
操業は、大正7年6月を予定し、女工の募集人員は70人で尋常小学校卒業または
満14歳以上の身体壮健な人。資格は、契約のトラブル等をふせぐために厳しく
求められていました。
大正15年、斐太製糸(株)の女工員数は140人、位山製糸59人、三星製糸56人
であったと言われています。
森下町の地名は、大正11年に創られた地図上によると、すでに森下町と記され
ていますが、昭和12年に片野区から分かれて森下組として独立し、昭和17年に
入って高山市の町名改正によって正式に「森下町」として呼称されるように
なっています。
山王宮・日枝神社とのつながりによるところが多く、戦後に新しく設置された
中学校、小学校、保育園に「日枝」や「山王」の名が使われ、住居地域へと
変貌し、いまに至っています。

大正6・7年の森下町は斐太製糸(株)片野工場が創立・創業
=当時の全景。現、日枝中学校の付近

大正6・7年の森下町には、斐太製糸(株)片野工場の寄宿舎があった。
=当時の寄宿舎。現、日枝中学校の付近
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Posted by 山まち at 11:41│Comments(0)
│昔の山王地区