2020年07月20日
昔の山王地区 城山でのサーカス興行
昔の山王地区 城山でのサーカス興行

写真提供:『細江光洋写真集』所収 昭和42年頃
高山の城山公園には、現在は二之丸公園の場所に戦後野球場が作られた。高山市民の憩いの場としてスポーツグランドとしての利用がなされていたが、スポーツが盛んになるにつれて手狭になり、野球場は中山公園の方に移転された。
そのため、二之丸公園は子どもの公園として再整備され、音楽ステージなどが作られていた。
その後、音楽場は利用者が少なかったため、昭和44年に動物園として再整備された。
それまで、二之丸公園のところでは、サーカスの興行などが行われ、写真のように象が歩いて海老坂を歩く光景が見られた。
当時はトラックがないので、高山線の貨車に入れられて高山まで運ばれたそうである。
筆者は当時小学校低学年で、面白がってこの象についていった所、海老坂で急に象が立ち止まったと思ったら、お尻から排泄物を出したことを覚えている。それが、また大量で、臭いはさほどなかったが、その量に驚いた。
町の中を歩いて城山まで連れて行ったことは、当時の高山の町に大宣伝となり、たくさんの人が、サーカスを見に行った。
オートバイが地球儀のような丸い籠の中でアクロバット走行をするシーンや、天井から吊り下げられた長いブランコを使った妙技など、当時の高山の人たちは、妙技に酔いしれたものである。
文責:徳積善太(KN)

写真提供:『細江光洋写真集』所収 昭和42年頃
高山の城山公園には、現在は二之丸公園の場所に戦後野球場が作られた。高山市民の憩いの場としてスポーツグランドとしての利用がなされていたが、スポーツが盛んになるにつれて手狭になり、野球場は中山公園の方に移転された。
そのため、二之丸公園は子どもの公園として再整備され、音楽ステージなどが作られていた。
その後、音楽場は利用者が少なかったため、昭和44年に動物園として再整備された。
それまで、二之丸公園のところでは、サーカスの興行などが行われ、写真のように象が歩いて海老坂を歩く光景が見られた。
当時はトラックがないので、高山線の貨車に入れられて高山まで運ばれたそうである。
筆者は当時小学校低学年で、面白がってこの象についていった所、海老坂で急に象が立ち止まったと思ったら、お尻から排泄物を出したことを覚えている。それが、また大量で、臭いはさほどなかったが、その量に驚いた。
町の中を歩いて城山まで連れて行ったことは、当時の高山の町に大宣伝となり、たくさんの人が、サーカスを見に行った。
オートバイが地球儀のような丸い籠の中でアクロバット走行をするシーンや、天井から吊り下げられた長いブランコを使った妙技など、当時の高山の人たちは、妙技に酔いしれたものである。
文責:徳積善太(KN)
Posted by 山まち at 08:00│Comments(0)